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小島武夫 ミスター麻雀の魅力的でろくでなしな生き方

小島武夫というと、「ミスター麻雀」、「麻雀プロ第一号」といった肩書、雀士の間では「小島先生」や「先生」最近ではネット上では「ふがふが」と呼ばれたり、唯一の自叙伝のタイトルは「ろくでなし」、このようにさまざまな肩書、愛称、呼び名がある人物です。良くも悪くも、日本の麻雀の歴史において、重要な人物であるのはまちがいないです。そんな麻雀界最大のビックネーム、小島武夫についてご紹介したいと思います。

目次


1.小島武夫の経歴

小島武夫(こじま たけお)というのは「ミスター麻雀」のあだ名を持つ、日本プロ麻雀連盟の初代会長であり、現在は最高顧問を務め、いまだ現役雀士でもある、プロ雀士の方です。そんな麻雀界の大物、小島武夫の歴史をご紹介したいと思います。

福岡時代

小島武夫は1936年福岡県福岡市生まれの生粋の博多っ子です。幼少期に戦争を経験し、福岡大空襲も経験しました。幼い時は裕福な家庭でしたが、戦後、父親の事業がうまくいかず貧乏になってしまい、中学卒業前に川新地という治安の悪い場所に引っ越しました。
中学三年生の時に近所の年上の仲間から麻雀を教わり、他の博打もその時代に覚えていったそうです。その時代から大物手を狙ううち筋で、そのスタイルはいまだにぶれずに変わっていません。
中学卒業後はパン屋に努めますが、パン屋の仕事だけでは飽き足りず、雀荘通いを始めます。仕事終わりにありったけの札束をポケットに入れ、雀荘へと向かったそうです。

十九歳の時に、パン屋勤めを辞め、博多の雀荘で住み込みでメンバーとして働き始めます。正午から出勤して12時間打ちっぱなし、といった生活だったそうです。一、二年もしないうちに、エース格になり、時には大阪からきたイカサマ師のイカサマを暴き追い払った、といったエピソードもあります。雀荘勤めを始めてから博多の雀荘を転々として働きます。

二十六歳の時に、一緒に暮らしていた女性に子供が出来たので、入籍します。が、家庭に束縛されることを嫌い、女遊びは止まらず、二十七歳の時、当時の奥さんと二人の子供を福岡に残し、1961年に浮気相手と東京へ駆け落ちします。

上京後、麻雀タレントへ

小島武夫は東京に出てきて、神田にあった雀荘「アイウエオ」でボーイとして働き出します。博多時代と違い、打ち子を兼ねたメンバーではなく、飲食物の注文を受けたり、卓のトラブルに対応する仕事です。

転機になったのは1967年、日本麻雀連盟主催「東京牌王位戦」へ出場し優勝します。その時に初めて、賭け麻雀ではなく、競技麻雀の世界に入りました。そして、「アイウエオ」の常連客の紹介で、雑誌の麻雀クイズのゴーストライターの仕事を引き受け、さらには当時流行っていた深夜番組「11PM」の出演の仕事を引き受けます。「11PM」の出演で小島武夫の名前はさらに売れ、1968年から1975年まで「11PM」の出演は続きました。テレビでイカサマ技を公開し、有名な「つばめ返し」もその時代に小島武夫がテレビで発表したことから有名になったそうです。

阿佐田哲也との出会い、第二次麻雀ブーム

「11PM」に出演し麻雀タレントとして世に売れ始めたころに、雀荘「アイウエオ」に来た小説家・阿佐田哲也(あさだ てつや)と出会います。阿佐田哲也についての詳しい説明はこちらのページをご覧ください→雀聖・阿佐田哲也とは?雀士であり小説家だったその人生

この出会いがきっかけで小島武夫の人生は大きく変わります。1970年に阿佐田哲也が発表した『麻雀放浪記』という小説が大ヒットし、シリーズ化され、当時も乱立していた麻雀団体から代表者が出場する「麻雀名人位」という大会が開催されます。麻雀団体といっても、今のようにプロという概念でなく、愛好家によるいくつかの団体が発足、派生、消滅をくりかえし、独自のルールの競技会を行っている程度だったそうです。

その「麻雀名人位」という大会に作家・阿佐田哲也、当時の肩書は麻雀評論家だった小島武夫が出場し、小島武夫は優勝は逃しますが、その打ち上げで阿佐田哲也から「麻雀新選組」の結成を誘われます。

麻雀エンターテイメント集団「麻雀新撰組」が結成され、「週刊プレイボーイ」、「週刊ポスト」、「週刊大衆」などの雑誌の誌上対局を含めた麻雀企画、「11PM」をはじめとするテレビ出演といったメディア出演で一躍有名になり、第二次麻雀ブームを盛り上げました。当時の麻雀タレントとして一番人気だった小島武夫はいつしか「麻雀プロ第一号」と呼ばれるようになりました。
関東大震災復興後の1923年ごろに流行したのが麻雀の最初のブームで、その時は菊池寛といった有名作家などの文化人が麻雀ブームを盛り上げました。阿佐田哲也や小島武夫ら麻雀新撰組が中心となって、再び1970年代に麻雀ブームが起こり、いつしかその時代を第二次麻雀ブームと呼ばれるようになりました。

麻雀新撰組解散、日本麻雀プロ連盟設立

1974年に麻雀新撰組は解散し、小島武夫は36歳、上京して10年、駆け落ちした女性との間に子供ができ、二度目の入籍をします。そして、そんな時に、前の奥さんからお願いされ、二人の間にできた二人の娘を引き取ることになります。
二人目の奥さんと息子、前妻との間にできた娘二人、やはり家の中は居心地が悪かったそうで、ますます家庭から遠のき、その当時とある女優との不倫関係が長く続いたそうです。

1980年、「最高位戦」という麻雀大会の決勝戦で八百長疑惑が起こり、運営側である「近代麻雀」と当事者の灘麻太郎と荒正義の両名が対立し、小島武夫は当事者側に立ち、麻雀界を二分する騒動に発展。
そして、1981年に「日本プロ麻雀連盟」を立ち上げ、初代会長に就任しました。もともと、麻雀のプロ団体という構想はあって、八百長疑惑がきっかけではないと本人は否定しますが、世間的にはこの八百長騒動を大きく取り上げ、小島武夫への風当たりは強かったそうです。

麻雀ブームは80年代に入り失速しました。その一つの要因が、八百長疑惑後の麻雀界の分裂だとも言われています。しかし、小島武夫は「プロ麻雀」という概念を作り、大会の設立、新人プロの発掘・育成、イベント開催やテレビ、インターネットでの対局、麻雀ゲームの開発、などなどをプロ麻雀連盟は行い、その存在を引っ張ってきた小島武夫は「ミスター麻雀」と呼ばれるようになりました。

現在の小島武夫

日本プロ麻雀連盟の運営からは一線を引きましたが、連盟や業界そのもの対する影響力の強さから老害とアンチから叩かれることもありますが、まぁ、昔から一番人気の雀士だったため、批難されることも多かったので、今に始まったことではありません。
現在も雀士としては現役でタイトル戦に参加したり、麻雀店のゲスト出演、大会の解説など、まだまだ現役と言ってふさわしい活躍をしています。
そして、解説時の喋り方から「ふがふが」という愛称でネット上では呼ばれています。確かにふがふがしています。

「飲む、打つ、買う」を地で行く生きかたをしていましたが、ギャンブルとしての麻雀は数年前に辞め、最近では飲まない、打たないをモットーとした、「健康麻雀」に参加したり、健康麻雀の団体の活動への参加などの活動もしています。

ふがふがした喋り方です↓


2.もっと深く小島武夫について

小島武夫について知っておきたい功績、そして知っておきたいいくつかのことを紹介したいと思います。

麻雀新撰組

麻雀新撰組というのは、阿佐田哲也が中心となって1970年に結成された麻雀エンターテイメント集団です。阿佐田哲也が真っ先にメンバーとして声をかけたのが、小島武夫なのです。さらにメンバーを集めようということで、当時小島武夫の働いていた雀荘「アイウエオ」の常連だった古川凱章(ふるかわ がいしょう)に声をかけ、麻雀新撰組は結成されました。阿佐田哲也が局長、小島武夫が副長、古川凱章が最初のメンバーということで、阿佐田哲也が近藤勇、小島武夫が土方歳三、古川凱章が沖田総司だなんていう冗談を言っていたそうです。

小島武夫が語るには、麻雀新撰組というのは、阿佐田哲也が考えていたのは「麻雀版の漫画集団」といった存在だったようです。1932年に漫画家・横山隆一らが創設した「新漫画派集団」がいろいろな時代を経て「漫画集団」へ変わり、当時の流行に乗って多くの新人漫画家を輩出していました。既存の麻雀団体に対抗する新組織として、そういったアイディアが混ざり麻雀新撰組が結成されました。そして、最初は少数先鋭の部隊を作り、メディアに売り出し集団として価値のあるものとして売り出そう、というように動き始めました。

雑誌やテレビなどのメディア露出も増え、結成三年目になると門下生も増え、田村光昭(たむら みつあき)や青柳賢治(あおやぎ けんじ)などメンバーが台頭し、阿佐田哲也を中心に大勢を引き連れて歩く姿はまるで時代小説で読んだ「新撰組」の姿のようだった、と回想しています。

しかし、麻雀新撰組は1974年に解散します。一番の理由は、阿佐田哲也の体調の悪化であり、持病であるナルコレプシーと診断されたのもこの頃です。阿佐田哲也は麻雀界からの引退を決意し、麻雀新撰組から脱退します。残された小島武夫と古川凱章にその後をゆだねますが、考え方の違う二人は別々の道を歩み、麻雀新撰組は解散します。

日本プロ麻雀連盟

日本プロ麻雀連盟というのは、1981年に小島武夫が初代会長として立ち上げた麻雀のプロ団体です。日本プロ麻雀連盟の前にもいくつかの麻雀団体は存在しましたが、プロ麻雀としてでなく、どちらかというと麻雀愛好家としての集まりのような存在でした。

小島武夫が設立の理念として語ったことは、

「麻雀を囲碁・将棋や他のスポーツの地位に押し上げ、麻雀プロ全体が将来的に食っていける世界を作る。」

「スポンサーと契約して、年間リーグ戦などのタイトル戦、プロアマによるオープン大会やアマチュアへの技術指導や段位認定を行う組織として活動する」

要約するとこんなようなことでした。

これらは二十年、三十年で基盤が出来る大作業だと自覚したようです。実際に最初の十年は資金繰りも上手くいかず、自分のCMやテレビのギャラも運営資金に回していたそうです。

さて、現在は2015年ですが、実現できた面と出来なかった面がまだあるかと思います。これは私の考えですが、やはり、麻雀のみでプロ雀士として食べていくには難しい世界であり、囲碁や将棋のような地位には至っていないのは事実です。むしろ、連盟からギャラとしてはもらえず、むしろ会費としていくらか連盟に納めなければいけない、といった他のジャンルの「プロ」の常識からは少し離れた感覚だと思います。

しかし、プロ麻雀としてジャンルを確立し、大会や技術指導、そしてゲームセンターやインターネットでの麻雀ゲームの支援、ネット放送による対局の中継など、日本プロ麻雀連盟の業界を引っ張ってきた功績は、麻雀の歴史で大きなものだとも思います。

女性遍歴

小島武夫の最初で最後の自伝のタイトルが『ろくでなし』です。このページを書くにあたって、『ろくでなし』を参考にしていますが、小島武夫本人が認めているように、自他ともにみとめるろくでなしな人生を送ってきた人だと思います。それが女性遍歴に現れています。

結婚は三度し、離婚も三度しています。本人いわく抱いた女は二百人余り、だそうです。若いときは確かにルックスは悪いほうではなかったです。それ以上に自分に自信があったのでしょう。こんな言葉を残しています。

「俺は、本気で狙った女をはずしたことは一度もない。」

二十六歳の時に子供ができ結婚。二人の娘が生まれましたが、二十七歳の時に嫁と子供二人を捨て、浮気相手と東京へ駆け落ち。
三十六歳の時にその駆け落ち相手との間に子供ができ結婚。息子が生まれて、事情があり前妻との間にできた娘二人を引き取る。しかし、家庭にしばれれることを嫌い、女遊びを繰り返します。そして、平成元年、五十四歳の時に正式に離婚します。

老いてもまだ元気だったようで、五十三歳の時に出会った女性と不倫関係になり、その女性も既婚者だったようですが、二人目の奥さんと離婚した年に結婚。しかし、四年後に離婚。最後の奥さんはその後、脳梗塞になり闘病生活中に入水自殺したそうです。そのことには相当堪えたと回想しています。

そして孫が10人います。そのうちの一人、小島優は日本麻雀連盟所属のプロ雀士です。

しかし、彼女と初めて会ったのは二十二歳の時で、彼女の母親(小島武夫の次女)とは何年も会っていない上に、連絡先もしらずに、孫がいるのも知らなかったそうです。小島武夫本人も言っていますが、客観的に見てひどい親ですよね・・・。しかし、全く影響を受けなかったはずなのに、プロになるなんて血というのは本当に恐ろしいものです。

そんなろくでなしな小島武夫の女性遍歴ですが、ちょっと名言になるようないい言葉を残しています。

「女に惚れる時は一生懸命惚れろ。中途半端なことをしてはいけない。」

いやはや、この言葉だけ見たらいい男に感じるのですが・・・。

本当は弱いと言われる小島武夫

小島武夫は弱いとよく言われます。それは今だけでなく、昔も言われていたようで、阿佐田哲也著『ぎゃんぶる百華』にも書いてあります。
実際に、「無冠の帝王」と呼ばれ、大きな大会のタイトルが一つも取れない時代がありました。いいところまで行くのですが、大事なところで勝てなかったのです。(その後、タイトルを手にして無冠の帝王は返上。もちろん連盟の大会でもタイトルを取っている)なので、阿佐田哲也は本当に小島武夫は強いのか?と聞かれることがよくあったっそうです。が、

「単に技術だけならどうかしれないが、勝負師としては小島くんが二枚も三枚も上でしょうね。」

と小島武夫が他の雀士と比較されるとそう答えていたそうです。

雀士としての小島武夫は確かにそういったところがあります。小島武夫という雀士は「魅せる麻雀」がモットーなのです。小島武夫の考えとしては、競技麻雀はやはりお客さんも楽しませてなんぼ、といった考えがあるので、小さい手でアガったり、勝ちというものに他の雀士と比べて執着が薄いところがあります。

そもそもの打ち筋が、アガることよりも、手作りを重視し、より高い打点でアガることを目指します。

そして何より、場の流れや、運、そしてツモのリズム、なんていう実に昭和の雀士らしいオカルトちっくなことを重視する人です。
今の時代にはよくある、麻雀指南書のような戦略本がたくさんありますが、最初に出版した人が実は小島武夫なのですが、大体そこに書いてある内容は、場の流れを読むだったり、高い打点を選ぶ、手作りを重視する、といった方法論です。

そう、それは今の時代の麻雀の主流と真逆だったりするんですね。今は安くても早くアガる、手作りよりも効率の良いアガりを目指す、流れや、リズムなんて存在しない!といった麻雀ですから。
しかし、日本プロ麻雀連盟は小島武夫の作った団体ですから、オカルトちっくな考え方が強いです。そして、現実的な一部の若手と考え方が合わずにゴタゴタが起こり、お互いに非難し合っていたりします。

しかし、人気があるのはやはり小島武夫の麻雀なのではないでしょうか?いくら時代が変わり、娯楽が増えて、麻雀の人気がなくなったとしても、男性のスター雀士は存在しません。そして、確かに小島武夫の打ち方を他の人がしても勝てないと思います、が、小島武夫はやはり勝負師の勘というか、説明できないところでギャンブルとしての麻雀で勝っていたはずです。(もちろん競技麻雀でも)

ある意味では小島武夫は弱いかもしれないですが、それは自分にとってプロレス的な面白さを追求しているからではないかと思っています。

小島武夫の麻雀哲学

「つまらない手を和了するぐらいなら、和了しないほうがいい」

小島武夫はそう語っています。それが独自も麻雀哲学なのです。博打ならともかく、競技麻雀において、姑息でも勝ちにこだわった麻雀を打ってもしかたがない。最近の麻雀プロはそんな面白くない麻雀を打つものばかりで、危機感を感じるそうです。

例えば倍満の手を満貫に落としてアガっても美しくない、麻雀には美があり、どういった形で自分の麻雀を「昇華」させるか意識して打つ、勝つことだけ考えていてはファンはついてこない。プロであるならファンに感動を与えなければならない、という麻雀哲学を自伝『ろくでなし』の中で語っています。

「勝つ」だけでなく、「魅せる」、それがミスター麻雀と呼ばれる小島武夫の麻雀なのです。

借金王

テレビのレギュラー出演が終わり、雑誌の仕事も減り、収入が激減したと時代にマスコミからは「借金王」という称号を与えられたことがありました。一度覚えた贅沢は変えられず、ヤクザまがいの街金融に金を借りてその取り立てには苦労したそうです。しかし、博打では大きな借金をしたことがないと語っています。

何度か雀荘経営をし、一度目、二度目は立ち上げの時に借りた金を返し、少しの利益が出るぐらいの状態で手放したのですが、三度目の雀荘経営は上手くいかず、立ち上げの時に金を借りた先が法外な金利を請求する街金で結局は破たん。保証人になった知人が自己破産したため、自分も迷惑をかけたため自己破産した、ということがあったそうです。

とにかく、生粋の遊び人で金づかいは粗く、収入が三千万という時代でも支出が一億といった具合で、小島武夫は著作が多数あり、本を今まで60冊ぐらいは出版していて、印税が恐らく二億はあるはずなのに一体どこに消えてしまったのだろう、と本人が驚くほどである。

ちなみに、1969年に出版した『絶対に負けない麻雀』という本は現在までに五十万部というロングセラーになり、印税は三千五百万円を超えるらしいです。

自伝『ろくでなし』の中で借金についてこんな名言を残しています。

「借金に惚れ、借金を抱き、借金と付き合う」

そう、逃げ癖をつけない、それが長年の経験から導き出した一つの答えだそうです。修羅場をくぐった人だからこその言葉ですね。


3.小島武夫の動画紹介

youtubeにいくつかある小島武夫の動画を紹介したいと思います。

役満集

さすがミスター麻雀・小島武夫、といったような、恐ろしい引きを見せてくれる役満動画集です。

九連宝燈

出すと死ぬと言われる九連宝燈。しかし、まだまだ小島武夫は元気です。そして、公の場では二度目の九連宝燈だそうです。

その後の感想

国士無双

四暗刻

イカサマ集

イカサマ披露で有名になった、小島武夫のイカサマ動画集です。

つばめ返し

ドラ爆弾

すり替え

元禄積み

イカサマ解説まとめ

ちょっと時代を感じる広川太一郎氏のナレーションによるイカサマ紹介


4.交友関係

小島武夫と関わりのある人物を紹介したいと思います。

阿佐田哲也

雀聖というあだ名を持つ小説家、阿佐田哲也(あさだ てつや、1929年3月28日 – 1989年4月10日)は、小島武夫にとって恩人でもあり、兄貴分でもあり、師匠でもある人物でした。阿佐田哲也は「11PM」に出演していた小島武夫に興味を持ち共に麻雀を打つようになり、麻雀新撰組結成に声をかけ、麻雀新撰組を解散した後も気にかけていたようです。

阿佐田哲也は小島武夫について、「いい恰好しようとして荒削りなところがあり、それでいて楽天的だからとことんのところで勝負に固執しない」と称しています。また、「本当の破綻者、本物の遊び人、ターザンが管理社会に現れたようなもの」なんて言い方もしています。つまりそれが人気の要因の一つ、と語っています。小島武夫のタレント性、スター性、そして芸人気質な部分を発見し、世間にで出るきっかけを作った人とも言えるでしょう。

小島武夫が言うには、『麻雀放浪記』の主人公「坊や哲」の技術面のモデルは小島武夫らしいのです。阿佐田哲也は小島武夫との麻雀の付き合いを通して小説執筆のための取材活動を行っていて、それがうれしかったし、刺激的だったとのことです。
もしかしたら、麻雀や博打は小説のネタに過ぎず結果は二の次で奥深さを知るために、小島武夫というサンプルを世に広めどういう結果をもたらすのかという実験をしていたのかもしれない、というように、小島武夫は阿佐田哲也との関係を振り返っています。

小島武夫の自伝やインタビューを読むと、いかに阿佐田哲也から影響を受け、そして慕っていたかが感じられます。

小島武夫が語る麻雀新撰組、そして阿佐田哲也について→http://www.mondotv.jp/specialprogram/asadatetsuya/interview

日本プロ麻雀連盟を立ち上げる際に、小島武夫は阿佐田哲也に会長職をお願いしたようですが、プロ団体を作ることには賛成だったけれども、段位を与える、といったシステムには疑問を感じ、体調面の不安もあり結局は日本プロ麻雀連盟とのかかわりは薄かったです。

古川凱章

古川凱章(ふるかわ がいしょう、1938年1月17日-)と言えば、麻雀新撰組結成時のメンバーであり、当時の小島武夫の盟友にあたる人物です。小島武夫の派手さ陽気さとは反対に、地味ながら玄人する受けする人物でした。実際に小島武夫とは対照的で真面目で無口な人物のようです。

麻雀新撰組解散後は意見の食い違いもあり、わだかまりもあったようです。麻雀の考え方も違い、二人は別々の道を歩み、小島武夫は日本プロ麻雀連盟を設立し、 古川凱章は1982年に「順位戦101」という団体を設立し、それが前身となって現在の1987年に「101競技連盟」になりました。点数でなく、順位を重視した考えの麻雀で、なおかつ競技性を高めたルールで一発や海底、河底などの偶然役がなく、また、裏ドラや槓ドラもありません。

古川凱章は101競技連盟の運営と並行して一時は「近代麻雀」の編集長を務めました。現在は雀士としては引退し一線を退き、101競技連盟の相談役として運営に努めています。

小島武夫曰く、今はかつてのようなわだかまりはなく、地方局の麻雀番組のゲストに呼んだり、うまいと思った焼酎を送ったりといった交流があるようです。「サシで酒を飲むのはまだ少し先になるが、遠くない将来に阿佐田先生の墓前の前で、というのはどうだろう」といったように自伝の中で書いている。なんとなく二人の関係が見えるような一文だと思います。

桜井章一

麻雀界のもう一人のビックネーム、それが桜井章一(さくらい しょういち、1943年8月4日- )です。代打ちとして二十年間無敗といった伝説の持ち主で、雀鬼の異名を持つ人です。現在は雀鬼会という集団を結成し、雀鬼流という麻雀哲学のような特殊な教えを説き、麻雀を教えています。

桜井章一が裏社会を離れ、世に出るきっかけを作ったのが小島武夫で、麻雀タレントとして多忙になってきた頃、テレビでのイカサマ公開に辟易していて自分の代わりを探していて、そして知人に紹介されたのが桜井章一でした。そして、小島武夫はテレビのプロデューサーに紹介し、桜井章一はテレビ出演するようになったのです。

小島武夫曰く、桜井章一は功名心が強く、麻雀新撰組への憧れと敵対心が強かったようです。一度、阿佐田哲也、小島武夫、古川凱章、桜井章一の四人で打っていた時に、河から牌を拾っているのを小島武夫が見つけ、他の二人に気付かれないように卓の下で膝を蹴ったこともあったそうです。しかし、イカサマをしなくても十分強かった、と称しています。

小島武夫が桜井章一に述べていることで一番印象的なのは、

「雀鬼会の活動はやはり理解しがたい。麻雀は個人個人が切磋琢磨していくものであって、決して宗教にしてはいけない。阿佐田さんのように勝手に周りが崇めるのは構わないが、自ら神になってはいけない」

そう述べています。

しかし、同時に桜井章一は麻雀は巧いし、麻雀を愛している、とも言っています。自分や古川凱章とは違う道を歩んでいった桜井章一に対して、いろいろな感情があるんだと、自分は想像しています。

桜井章一についてはこちらのページで詳しく説明しています→雀鬼・桜井章一 二十年間無敗だった伝説の雀士

小島優

日本プロ麻雀連盟所属、二七期生の若手プロ雀士、それが小島武夫の孫、小島優です。小島優の母親、つまり小島武夫の娘とは、小島優が四歳の時から会っていないらしいです。連絡はたまに取っていたらしく、連絡先を教えてもらって交流を持つようになったのがきっかけで、プロになったそうです。血は争えないのですね。

連盟内の段位は二段、好きな手役はメンゼンツモ、一気通貫だそうです。池袋の雀荘「リオ」で常勤プロとしては盥いています。小島武夫の孫ですが、離れて暮らしていたので名古屋生まれ名古屋育ちです。

今は孫というだけでしか名前が売れていませんが、いつかその肩書がなくても活躍できるようになってほしいものです。

公式ブログです→こじま!ゆ~のブログ

公式ツイッター→https://twitter.com/yu_kozima

祖父譲りの手役作り↓


5.まとめ

ミスター麻雀と呼ばれる小島武夫の雀士としての活動は、良くも悪くも日本におけるプロ麻雀の歴史と同じようなものです。それだから「ミスター」の肩書を持ち、「プロ麻雀第一号」の肩書を持つのです。
このページを書くにあたって、小島武夫の自伝『ろくでなし』を参考にさせていただきました。ご自身が自伝のタイトルにするように、実にろくでなしな人生を赤裸々に披露しています。興味深い本ですので、もし小島武夫について気になった方は読んでみてはいかがでしょうか?

皆さまのご感想、コメントなどお寄せください



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