雀聖・阿佐田哲也とは?雀士であり小説家だったその人生
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雀聖・阿佐田哲也とは?雀士であり小説家だったその人生

阿佐田哲也という人は小説家です。が、ばくち打ちとしても有名で、昭和の麻雀ブームの礎を作った人物でもあります。そして、雀聖というあだ名を持つほど麻雀界では大きな存在だった人物なのです。そんな雀聖とも呼ばれた阿佐田哲也という人物で、どのように麻雀界に影響を与えた人物なのか、それを紹介したいと思います。

阿佐田哲也って何者?

阿佐田哲也(あさだ てつや 1929年3月28日 - 1989年4月10日)は東京出身の小説家です。いくつものペンネームを持ち、阿佐田哲也名義としては、ギャンブル小説やギャンブル、特に麻雀関連のエッセーを発表しています。ギャンブルを主題とした、ピカレスク小説というのが、阿佐田哲也の作風の特徴です。
そして、麻雀小説という、新たなジャンルを確立し、文体の中に牌譜を混ぜるという方法で、牌の状況を表現しました。ちなみに、特殊な牌のハンコを持っていて、それを原稿用紙に押して書いていたそうです。

阿佐田哲也というと麻雀が有名ですが、他にもチンチロリン(サイコロ賭博)、競艇、カジノなどのあらゆる博打に精通していました。ちなみに、競馬はあまり好みではなかったようです。

阿佐田哲也氏というと、小説家としての一面だけでなく、昭和の麻雀ブーム最大の功労者であり、麻雀を単なるギャンブルというものから、文化の一つとして広めたという人なのです。

代表作である『麻雀放浪記』が1969年から1972年の間に4シリーズ発表され、麻雀小説というジャンルを確立。
1970年に麻雀エンターテイメント集団「麻雀新撰組」を小島武夫や古川凱章と共に結成し、伝説の深夜番組「11PM」の麻雀コーナーにも出演しました。
1970年から『週刊ポスト』誌で有名人による麻雀勝抜戦(阿佐田が観戦記担当)が開始され、1972年には竹書房から日本初の麻雀専門雑誌『月刊近代麻雀』が誕生し、次々と麻雀雑誌が刊行され、精力的に執筆・参加いました。

こういった活動から、「雀聖」として神格化され、麻雀界のビックネーム、麻雀界のドン、といった存在になりました。

ちなみに、阿佐田哲也というペンネームの由来は、朝まで徹夜をして麻雀を繰り返し、「朝だ!徹夜だ!」といった言葉を取って名前にしたそうです。

そして平成元年四月三日、健康回復のために引っ越したばかりの岩手県一関市で倒れ、一週間後の四月十日に宮城県の病院で亡くなられました。死因は「心臓破裂」でした。

「雀聖」というニックネームについて

もともと阿佐田哲也のニックネームは「雀聖」でなく、「雀鬼」というニックネームでした。

しかし、当時麻雀の裏世界で代打ちとしてナンバーワンといわれ、後に20年間無敗として有名になる桜井章一も「雀鬼」というニックネームがつき、区別するために阿佐田哲也は「雀聖」として呼ばれるようになりました。

桜井章一本人が語るには、まだ麻雀の世界で認められていなかったころ、阿佐田哲也だけが「この人こそが本当の麻雀打ちだ」と認めた、と言っています。また、阿佐田哲也の麻雀の実力は大したことなく裏稼業で生きていけるほどではなかった、とも語っています。しかし、ビックマウスで有名な桜井章一ですので、本当のところはわからないです。

阿佐田哲也大神

「雀聖」という呼び名は自分で名乗っているのではなく、いつしか周りがそう呼び始めた、といったニュアンスが正しいと思います。自らが神になったわけではありません。

なんと、京都の伏見稲荷神社には「阿佐田哲也大神」が祀られているのです。本当に神様になってしまったのです。これは、新日本麻雀連盟というアマチュア団体の南本喜三理事長が、「阿佐田哲也杯」(現在は麻雀王座決定戦という名前に変更)で優勝し、その賞金をつかって建立されました。そして、阿佐田哲也の命日の四月十日に合わせて、四月の第一日曜日に関係者によって祭典が開催されるようになりました。

その石碑には「麻雀新撰組副長・小島武夫」と麻雀新撰組の一員として、阿佐田哲也の弟分として活躍した、日本プロ麻雀連盟の初代会長の小島武夫の名前が入っています。

伊集院静著『いねむり先生』

伊集院静の自伝的小説、『いねむり先生』には阿佐田哲也をモデルにした人物が登場します。いねむり先生というタイトルは阿佐田哲也の持病であるナルコレプシーと関係があり、ナルコレプシーという突然寝てしまう阿佐田哲也を指しているタイトルなのです。
作中で、神楽坂にある毘沙門天のベンチで寝ている阿佐田哲也が登場しますが、実際に神楽坂にはその場所があるそうです。

二度テレビドラマ化されていて、西田敏行と國村隼が阿佐田哲也を演じています。二人とも実にピッタリな配役だと思います。

本名・色川武大(いろかわ たけひろ)

阿佐田哲也の本名は色川武大といい、色川武大名義でも小説を発表しています。ご自身のエッセーで書いているように、阿佐田哲也のほうが有名で、街で声をかけられると阿佐田哲也としてよく声をかけられギャンブルの話ばかりされたそうです。小説書きには世間には興味がないと自虐的に語っていました。

しかし、色川武大としての経歴も阿佐田哲也としての経歴に引けを取らない立派なものです。色川武大名義では、主に純文学を発表しています。

1961年に、父親のことを書いた『黒い布』が伊藤整や武田泰淳や三島由紀夫の激賞を受け、第6回中央公論新人賞を受賞。

その後はスランプに陥り、同人誌での活動をしながらギャンブルで生計を立て、阿佐田哲也名義での小説がヒットし、阿佐田哲也としての名前が売れてきます。

1977年に『怪しい来客簿』が色川武大名義で刊行され、泉鏡花賞を受賞し、『黒い布』以来16年ぶりに色川武大復活になります。そして、1978年には『離婚』で第79回直木賞を受賞し、1982年 『百』で川端康成文学賞を受賞、1989年 『狂人日記』で読売文学賞を受賞と、晩年には色川武大としても多数の賞を受賞しています。

ちなみに、阿佐田哲也という名前、一見ありそうな名前ですが、阿佐田という苗字は日本に存在しないそうです。
そして「武大」という本名は、父親が中国の小説『金瓶梅』の登場人物より名付けたものとエッセーの中で語っています。「武大」といのは、上役にいじめられて奥さんを取られてしまう人物で、広東語では「寝とられ男」という隠語である、という話をエピソードが書かれています。

井上志摩夫(いのうえ しまお)

1961年に『黒い布』で色川武大としてデビューする前に、使用していたペンネームが井上志摩夫です。井上志摩夫としては主に時代小説を書いていました。

阿佐田哲也がデビュー前にミステリ雑誌の編集者として奇抜な時代小説を書くことで有名な山田風太郎と接していて、その影響を井上志摩夫名義の作品はその影響を受けていると言われています。発表当時は話題にはなりませんでしたが、現在ではアマゾンで購入できます。実に便利な時代ですね。

代表作・『麻雀放浪記』

阿佐田哲也としての代表作、それが『麻雀放浪記』です。シリーズもので、全4巻で構成されています。戦後の博打としての麻雀で生きる人々を描いており、ピカレスクロマン(悪漢小説)として評価が高いです。『アウトレイジ』のキャッチフレーズが全員悪人でしたが、『麻雀放浪記』がまさに全員悪人です。勝つためにはなんでもするし、生きるためにはなんでもします。とにかく、麻雀で戦後という時代をどうにか生きていく人たちを描いた小説なのです。

  • 青春編 1969年1月〜6月まで週刊大衆に連載
  • 風雲編 1970年1月〜6月まで週刊大衆に連載
  • 激闘編 1971年1月〜6月まで週刊大衆に連載
  • 番外編 1972年1月〜6月まで週刊大衆に連載

青春篇は主人公・坊や哲が博打の世界に足を踏み入れ、麻雀に打ち込み、バイニン(=ばくち打ち)として生きていく姿を描いた作品。師匠にあたる、コンビ打ちを教える「ママ」、積み込みや二の二の天和といったイカサマを教える「出目徳」、バイニンになるきっかけを作った片腕の「上州虎」、そしてライバルともいえる「ドサ健」、そういったバイニンたちとの出会いを描いています。

その後、坊や哲は風雲篇で、ヒロポン中毒になり、代打ちで失態をおかし、東京を出て大阪に行きます。大阪でブー麻雀に出会い、ブー麻雀の強敵たちと戦います。

*ブー麻雀とは、主に関西中心で行われている麻雀のルールで、ルール自体はほぼリーチ麻雀と同じですが、点数の扱いが異なります。基本的には一荘戦ですが、誰かの持ち点が倍になる、もしくは、誰かの点棒がなくなればその時点で終了です。そして、勝者の種類があり、「Aトップ=3人を原点未満に沈めた場合」「Bトップ=2人を原点未満に沈めた場合」「Cトップ=1人を原点未満に沈めた場合」といった区別があり、原点未満に沈んだ人はトップに支払う義務があるのです。

激闘編では坊や哲は長年の麻雀の打ち過ぎのため、肘があがらなくなり、イカサマが出来なくなったしまいます。闇の地下組織TS会から高利の金を借り、激闘を繰り広げます。

番外編では、戦後も安定期に入り、体を壊した坊や哲はバイニンを辞め、務め人になります。が、ある日、「ドサ健」と再会し、再び麻雀の世界に身を投じます。

物語は「私」という一人称で進むため、阿佐田哲也の私小説だと思われていますが、本人は否定していて、あくまでもこれは小説でモデルになる人物もいると言われています。しかし、自伝的要素は強いはずです。『麻雀放浪記』が発表され大ヒットし、その影響で賭け麻雀の世界で生きていこうと決意し、身を滅ぼした人が増えたそうですが、ご本人はそういった状況は当然うれしくはなかったようです。

映画版『麻雀放浪記』

麻雀放浪記は東映の当時流行っていた角川映画として、1984年に映画化されヒットしました。時代は84年ですが、白黒映画で、戦後の独特な雰囲気が上手く描かれています。

監督兼脚本でイラストレーターの和田誠
そして、もう一人脚本として澤井信一郎(代表作は『Wの悲劇』)
麻雀指導として桜井章一。「つばめ返し」などのイカサマ技の指導をしたそうです。

メインキャストとして、
主役の「坊や哲」役に真田広之。当時はアクション俳優として有名でしたが、一切アクションはありません。映画を見て小説を読むと、この真田広之のイメージがぴったりで、真田広之の姿で坊や哲の姿が脳内で再現されます。
ライバルの「ドサ健」役に鹿賀丈史。劇団四季を退団したばかりですが、もちろん歌いません。しかし、また生粋のバイニンである「ドサ健」のただならる雰囲気にぴったりです。
そのドサ健の女として若き日の大竹しのぶ
坊や哲にコンビ打ちを教えるクラブのママ役に加賀まりこ。今もきれいですが、若いときはもっときれいです。実際に加賀まりこも麻雀が強いらしいです。
坊や哲にイカサマ技をしこむ「出目徳」役にベテラン俳優の高品格
坊や哲をバイニンの世界に引き込むきっかけを作った「上州虎」役の名古屋章は名バイブレイヤーとして有名な俳優さんです。

もちろんソフト化もされていて、ツタヤなどのレンタル店には必ずDVDが置いてあります。気になった方は是非見てみてください。

『新麻雀放浪記―申年生まれのフレンズ』

1983年に発表された、麻雀放浪記の続編です。続編といってもうっすらと『麻雀放浪記』とつながりがあるぐらいで、厳密な続編ではありません。

『麻雀放浪記』のラストから10年後が舞台になっており、主人公が坊や哲で一人称が「私」ではあるけれど、いい年になってしまい、弟子のような存在とのやり取りが見どころです。麻雀以外にも、競艇、ブラックジャック、ルーレット、バカラなどのギャンブルが取り上げれれています。

『外伝・麻雀放浪記』

1991年に発表された麻雀放浪記の登場人物の「坊や哲」や「ドサ健」を描いた短編集です。
他に色川武大名義の『ひとり博打』も併録されています。

『ドサ健ばくち地獄』

1984年に発表された上下巻の『麻雀放浪記』の人気登場人物「ドサ健」のスピンオフ作品。「ドサ健」の視点で物語は語られ、出目徳の死から十年後を描いている。
麻雀以外にも、手ホンビキ、チンチロリン、ブー麻雀といったギャンブルも登場します。

これらの麻雀放浪記の外伝ものはタイトルを借りたVシネマが多数あり、レンタル店の隅のほうにある、パッケージが黒っぽいのが固まったVシネコーナーに置いてあります。
映画版は正当な『麻雀放浪記』ですが、そういったVシネは少し阿佐田哲也の世界とは違ったものになっています。

漫画・哲也のモデル

『哲也~雀聖と呼ばれた男~』という、さいふうめい原作、星野泰視作画の漫画が、少年マガジンにて1997年から2004年で連載されました。単行本は全41巻、アニメ化やゲーム化、パチンコも出ている人気漫画ですが、何を隠そう、阿佐田哲也の作品をモデルにした漫画なのです。

物語は阿佐田哲也の著書『麻雀放浪記』や『ドサ健ばくち地獄』などを参考、再構成したもので、登場人物もそれらの小説に出てきた人物の名前をそのまま取っていたり、小説で描かれたエピソードが登場することもあります。

『麻雀放浪記』がベースになっていて、戦後の時代が舞台です。しかし、『麻雀放浪記』だけでなく、他の作品からのエピソードも存在しています。

主人公の名前は『麻雀放浪記』と同じ「坊や哲」という通り名を持っていますが、名前は「阿佐田哲也」です。作中で文学の教養がある場面があり、文庫本を持っているといった設定も作家である阿佐田哲也を思わせる設定です。でも、顔は似ていません。

阿佐田哲也の病気・ナルコレプシー

漫画の中で主人公の哲也が物語の途中、突然睡魔に襲われる病気、ナルコレプシーに悩まされることになりますが、それは実際の阿佐田哲也も持っていた持病なのです。

原因もはっきりとわかっていないうえに、はっきりとした治療法も開発されていない、厄介な病気です。
具体的な症状は、突然眠くなる、寝たつもりもないのに記憶がない、幻覚をみる、突然脱力感に襲われる、金縛りにあう、といった病気です。当然、そのような症状の病気であるため、周囲の人の理解が非常に大切になる病気です。

実際の阿佐田哲也はばくち打ちとしての生活をやめて、小説家になった後に主にナルコレプシーに悩まされ、晩年は夜通し麻雀を打つ、といったことはできなかったようです。

交友関係

阿佐田哲也といえば、麻雀を通していろいろな人との交友関係を築きました。その中のごく一部を紹介したいと思います。

小島武夫(こじま たけお)

現在のように麻雀の団体が生まれる前の、プロ雀士という存在が生まれる前に阿佐田哲也は麻雀エンターテイメント集団「麻雀新撰組」を結成し、麻雀タレントとして雀士たちが世に出ました。阿佐田哲也の弟分で、麻雀タレントとして真っ先に世に出たのが小島武夫でした。そんな背景があるため、プロ雀士第一号といったように言われることもあります。

阿佐田哲也曰く、小島武夫という男は楽天的でとことんのところで勝負に固執しないところがあるそうです。長丁場でかならず小さなミスをして、いい恰好しようとして荒削りなとことがある、とのことです。今もそうですが、昔から本当に強いのか疑問に思う人はいるみたいでしたが、勝負師としての強さは阿佐田哲也も認めていました。

小島武夫についてはこちらのページで説明しています→ミスター麻雀・小島武夫、魅力的でろくでなしな生き方

古川凱章(ふるかわ がいしょう)

「麻雀新撰組」として世に出たもう一人の雀士、それが古川凱章です。麻雀新撰組解散後は、小島武夫はプロ麻雀連盟を設立しましたが、古川凱章は連盟には参加せず、のちに101競技連盟という別の団体を設立しました。

阿佐田哲也曰く、小島武夫と比べると地味だが玄人受けする雀士であると称しています。とにかく、小島武夫と古川凱章の二人がいて初めて雀士の世界が開けたと述べています。

井上陽水(いのうえ ようすい)

今となって誰もが知るシンガーソングライター、フォークの第一人者、井上陽水も阿佐田哲也の麻雀仲間の一人でした。

阿佐田哲也は出会ったばかりのときに「阿佐田さんは聞きしにまさる、居眠りですね」と井上陽水に言われたそうです。井上陽水という人物は静かな、ほどのよい遊びをする人で、バランスを崩したのを見たことがない。陽水さんがいると非常にしっかりとしたリズムマンにサポートされて、いい気分でソロを吹ける、誰が勝つにしろ負けるにせよ、とても快い。
といったように、阿佐田哲也は井上陽水について形容しています。なんとなく井上陽水という人がどんな人かが垣間見えるようです。

内田裕也(うちだ ゆうや)

ロックンロールでおなじみの、歌手、俳優、その他いろいろな肩書のある内田裕也も阿佐田哲也の麻雀仲間でした。ちなみに、阿佐田哲也はビートルズ以降の音楽にどうも馴染めずにジャズを好んで聞いていました。なので、個人的に井上陽水や内田裕也と仲は良かったけれど、実際に彼らの音楽を聞く機会は少なかったようです。

阿佐田哲也曰く、内田裕也という人物はシベリヤの大地を思わせる人で、八方破れだがまことにスケールが大きい、そういった人物だということです。一度、一色に染めると決めたら何が何でも混一色に向かって一直線、チャンタと決めたらチャンタ一直線、ツモっては捨て、つかんではなげ、一直線を邪魔するものは皆捨ててしまう、といった打ち方をするそうです。

畑正憲(はた まさのり)

ムツゴロウさんこと、畑正憲は動物だけでなく、麻雀の世界でも有名人です。現在も日本プロ麻雀連盟の相談役を務めています。

麻雀ブームが盛りあがりを見せ、雑誌上での麻雀大会が開催されていた時代に、文化人枠として阿佐田哲也と同じように数々の大会に出場しました。たくさんの仕事を抱え、どんなに忙しくても麻雀となると目の色を変えるような人物、と阿佐田哲也は語っています。とにかく気力いっぱいの人で、負けず嫌いで丹念で、その丹念さを長時間長続きできる人だからちょっとツケ込むすべがない、とも称しています。
そして、少しオカルトちっくな話ですが、相手のロン牌をつかむとそれを察知して、ピタリと止まるらしいです。昔、他家の国士無双の当たり牌を手にしたときにピタリと止め、阿佐田哲也の安い手にわざと振り込む、といったこともあったそうです。麻雀の強さが垣間見えるエピソードですね。

五木寛之(いつき ひろゆき)

『青春の門』などの小説、『大河の一滴』などの随筆で有名な小説家、五木寛之も麻雀を通して阿佐田哲也と交流がありました。

麻雀というのは巧ければ可ではない。強ければ可でもない。どんなふうであれ、魅力的であることが一番のぞましい、と阿佐田哲也は語っています。寛之の麻雀はそういった趣のある麻雀で、自分流の麻雀を追及し、ドラや裏ドラに執着した打ち方をするようです。例えば、「リーチ、ツモ、トイトイ、三暗刻、中、東、ドラ三枚、それで裏ドラも三枚あってこれで何翻だ?」といってアガったことがあったそうです。冷静に考えればそれは四暗刻なのですが、単純に四暗刻としてアガっては役満でドラが入らなくておもしろくない、役満として数えるわけでなく、ドラも含めて翻数を数えてくれ、そういった趣のある人物であると、阿佐田哲也は五木寛之について表現しています。

黒鉄ヒロシ(くろがね ひろし)

漫画家として、そして『クイズダービー』などのテレビ出演でも有名な黒鉄ヒロシは、多くの阿佐田哲也作品の表紙のイラスト、そしてエッセー集の挿絵を描いて、仕事上のパートナーとしてだけでなく、私生活でも親しい関係でした。

実をいうと、この阿佐田哲也の交友関係は阿佐田哲也著の『ぎゃんぶる百華』という随筆をもとに書かしていただいたのですが、この本は阿佐田哲也の文章と黒鉄ヒロシの挿絵の二つでなりたっているといっても過言でないぐらい、黒鉄ヒロシの絵というのが作品の大きな比重を占めています。そして、文章と絵の関係から、お二人の関係性が伝わってくるような気がします。

まとめ

雀聖と神格化され、昭和の麻雀ブームの中心にいたのが阿佐田哲也という人物です。しかし、持病であるナルコレプシーの影響もあり、晩年は趣味として麻雀を楽しみ、麻雀界の表舞台には立たずに、小説家としての活動に力を入れていました。戦後の混乱期を経験し、周りとは馴染めない自分はどうやって生きればいいのかを模索し、ギャンブルの世界に入っていったけど、やはりギャンブルで生きるのは難しく、文章を書くぐらいならといった気持ちで物書きになっていったそうです。阿佐田哲也の書く文章には、そんなユニークな人生が投影されているような気がします。もし、興味を持った方は一度読んでみてはいかがでしょうか?

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皆さまからのコメントと麻雀豆腐編集部からの返信!

  1. 手積みの麻雀てイカサマですよね。
    鉄火場を体験した私としては、詰め込みは、やめて欲しいです。
    逆に、詰め込みを覚えた人間は、そうではないようです。

    • 麻雀豆腐編集部です。
      麻雀豆腐サイトのご利用誠にありがとうございます!

      >手積みの麻雀てイカサマですよね。
      >鉄火場を体験した私としては、詰め込みは、やめて欲しいです。
      >逆に、詰め込みを覚えた人間は、そうではないようです。

      そうなのですね。最近のフリー雀荘は自動配牌でなかなかイカサマができないので、大丈夫かと思われます!

      今後とも麻雀豆腐をよろしくお願いいたします。

    • 麻雀豆腐編集部です。
      麻雀豆腐サイトのご利用誠にありがとうございます。

      >多少の誤字脱字は目を瞑るにしても くろてつ ひろしはないでしょう

      申し訳ございません。
      名前の読みに誤りがあり、早急に修正させていただきました。
      お恥ずかしい限りです…大変失礼いたしました。
      ご指摘いただき誠にありがとうございます。

      コンテンツに間違いないようより一層の注意を払い、ご利用していただけるユーザー様と共に麻雀豆腐も成長していけるように努力致します。
      今後とも麻雀豆腐を宜しくお願い致します。

    • 麻雀豆腐編集部です。
      麻雀豆腐サイトのご利用誠にありがとうございます!

      >はんこ が見たいのです
      ネットで検索した限り見つかりませんでしたが、岩手県一関市に浅田哲也が書いた原稿が展示されている博物館があるそうなので、もしかすると見られるかもしれないですm(__)m
      お力になれず申し訳ありません!

      今後とも麻雀豆腐を宜しくお願い致します。

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